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沿革

 

教室の沿革

1897年6月18日に制定された勅令第209号により、京都帝国大学の設置が正式に決まった。医学部は1899年に京都帝国大学医科大学として設立された。眼科学講座設置が正式に決まったのは、1901年6月20日である。これに先立つ1898年に京都府立医学校(今の京都府立医大)教諭浅山郁次郎が将来京都帝国大学眼科学講座担当の予定で眼科学研究のため、3年間のドイツ留学を命じられている。1902年2月7日付けで浅山郁次郎が教授に着任し、ここに教室が正式に発足した。

 

歴代教授

初代 浅山 郁次郎 教授

浅山は、3年間のドイツ留学中にハイデルベルグ大学、ウィーン大学に学び、ドイツ流の眼科学を導入した。病理学に造詣が深く、浅山門下の三羽烏といわれた菅沼定男(慶応大学眼科初代教授)、小柳美三(東北大学眼科初代教授)、市川清(京大2代教授)を育てている。浅山郁次郎の時代に京都眼科学会が設立され、今年(2007年度)で第113回を数えている。浅山は、在職中の1915年に逝去した。


 

第2代 市川 清 教授

浅山教授の死去に伴い、大阪赤十字病院より市川清が助教授で帰任、1915年12月に教授に任じられた。市川は手術の名手、非常な秀才であったようで、講義は正確無比、議論は快刀乱麻を断つがごときであったという。トラホーム研究の権威であったが、緑内障、角膜潰瘍の病理学的な研究も行っている。市川は1930年11月まで在職した。


 

第3代 盛 新之助 教授

市川の退官後、1930年12月に盛新之助が大連医院より本講座担当を命じられた。盛は、網膜剥離手術に先駆的な役割を果たした。教室の大きなテーマである網膜硝子体疾患研究は盛の時代に始まった。盛は1944年3月に退官しているが、その在職期間後半は、太平洋戦争の真只中で、教室からも軍医として出征、戦死者が出ている。


 

第4代 山本 清一 教授

盛の退官後、1944年9月に大阪赤十字病院より山本清一が教授として着任した。山本の時代は戦争のため、教室運営、眼科学研究も困難を極めた。山本は都合により、1949年以降休職となり、1957年に退官した。


 

第5代 井街 謙 教授

山本教授休職を受け、倉敷中央病院より井街 謙が1949年に教授として着任した。井街はその明るい性格により、大いに将来を嘱望されたが、着任直後に病に倒れた。井街の時代に開頭術が眼科に始めて導入されている。


 

第6代 浅山 亮二 教授

1950年、井街のあとを受け、浅山が教授に着任した。浅山は18年の長きに亘って教室を主宰し、門下からは数多くの俊才を輩出した。浅山の研究は、電子顕微鏡による超微形態学、電気生理研究、ビタミンおよびホルモン研究、そして網膜剥離の研究に大別される。電気生理研究は、臨床視覚電気生理学会へと発展し、網膜剥離の研究は、現在の日本網膜硝子体学会へと発展した。浅山の時代に教室は開講50周年を迎えている。


 

第7代 岸本 正雄 教授

1968年浅山の後を受け、長崎大学から岸本正雄が教授に着任した。岸本は緑内障と網膜剥離に深い関心を持ち、今でもこの2つの疾患は教室の大きなテーマとなっている。岸本の時代に大学紛争が起こり、その当時、研究室は封鎖され教室運営は困難を極めた。


 

第8代 塚原 勇 教授

岸本の後を受けて、1975年に塚原 勇が関西医大より教授に着任した。塚原は網膜剥離手術の名手であり、網膜色素上皮細胞の研究に深い関心を示した。塚原の時代に教室は大幅な近代化が行われ、研究手法も従来の形態学、生理学に加えて生化学、細胞生物学的なものが加わった。臨床面では、硝子体手術の導入が行われた。


 

第9代 本田 孔士 教授

塚原が任期途中で関西医大学長に転任した後を受け、1985年に本田孔士(よしひと)が教授に着任した。本田の教授在職は2003年まで18年に亘った。京都大学医学部が大学院大学化したこと、200名を超す入局があったこと、留学する医局員が激増したこと、欧米の一流紙に論文が発表されることがごく普通になったことなど、本田教授の時代に教室の徹底的な近代化、国際化が図られた。また、本田門下からは、数多くの眼科学教授が誕生した。


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