脳死肺移植術後低酸素脳症事例に関する事例調査報告書の概要
平成24年6月25日
京都大学医学部附属病院
病院長 三嶋 理晃
<事例概要>
- 1. 京都大学医学部附属病院(以下、「本院」という)呼吸器外科は、リンパ脈管筋腫症の40歳代女性に対して、平成23年10月に脳死肺移植手術を行いました。
- 2. 手術中に、移植した肺が機能不全となったために、低酸素血症(注:血液中の酸素が十分ではない状態)となりました。このため心肺補助装置(注:肺の機能を助けるために、血液を体外に取り出して、酸素を加えてから体内に戻すための装置)を装着しました。開始約12分後に突然脱血回路内に空気が混入し、空気を抜くために約4分間装置を止める必要が生じました。再開後、心肺補助装置は通常通り作動し、手術の翌日に患者は状態が改善し、心肺補助装置を外しました。
- 3. 手術の翌日、瞳孔の左右差が出現しました。脳障害が疑われ、精査にて低酸素脳症であると判明しました。
- 4. 脳障害が疑われた時点で、呼吸器外科は医療安全管理部および執行部に報告しました。京大病院は、事例調査委員会を設置することを決定し、外部専門家(3名)を主体とする事例調査委員会(内部委員を4名含む)を開催しました。
- 5. 術後8ヶ月経過した時点で、患者さんは人工呼吸器による管理中であり、脳障害は改善していません。
<事例調査委員会の検証と評価>
- 1. 手術の経過
患者さんの肺は過去に気胸を繰り返していましたので、肺と胸膜が癒着し、この癒着を剥離する際に相当量の出血がありました。人工心肺を使用して両側肺を移植し、移植肺が機能していることを確認して人工心肺を取り外しました。ドナー肺が移植されてからも時間あたり3000〜4000mLの出血が持続し、止血が困難な状態でした。一方で、移植後の移植肺機能不全により次第に低酸素血症が進行し、心肺補助装置を開始するか、あるいは、止血を優先するか検討しながら止血術を行っておりました。心肺補助装置を使用する際には抗凝固薬を使用することになるため、出血が続く状態で使用すると、さらに止血が困難になります。しかし、脳の局所混合血酸素飽和度が40(注:40を下回ると脳の低酸素を懸念する)を下回ったことから心肺補助装置を右大腿動静脈から装着することを決定しました。
心肺補助装置を開始するまでの約30分間、右前額で測定した局所混合血酸素飽和度は40を下回り、左前額での測定値は40以上で推移していました。
心肺補助装置を開始して速やかに酸素飽和度は回復しましたが、開始約12分後に装置内に空気が混入し、空気を除去するために約4分間心肺補助装置を止めざるを得ませんでした。再開後直ちに酸素飽和度は正常値に回復しました。再開後、装置は正常に作動し、手術翌日、肺機能が改善していることを確認して心肺補助装置を外しました。
- 2. 脳障害に至った原因
@移植後の約30分間とA心肺補助装置を止めざるを得なかった約4分間の低酸素血症の両方が重なって脳障害に至ったものと考えます。また、癒着を剥離した部分から出血が続くために、大量の輸血でこれを補ったとしても血圧を保つことが困難であったために、結果として、脳に十分な量の血液を送ることができなかったことも脳障害の原因の一つと考えます。
- 3.手術中に心肺補助装置に空気が混入した原因
空気が混入する経路として、@体(心臓あるいは血管内)のどこかに空気が混入、A心肺補助装置の回路内に空気が混入、の2つの可能性があります。装置自体は再開後手術翌日まで正常に作動しており、製品の欠陥や不備は考えられません。
- (ア)体のどこかに空気が混入した可能性
心臓や血管内に空気が流入するとすれば、手術中の手技によって誤って血管を傷つけたなどの可能性、あるいは、輸血バッグの交換中にライン(血管内に挿入されている管)内に空気が混入した可能性を検討しました。前者については、手術の動画を外部委員が確認しましたが、問題を指摘できませんでした。後者については確認する方法はありませんが、今回のような大量(約20mL)の空気が一気にラインに混入して目視で気づかないという状況は考えにくいと思われます。
- (イ)心肺補助装置の回路内に空気が混入した可能性
約20mLの空気の塊が脱血回路と遠心ポンプの間に認められましたので、この間で外部との交通が可能な2カ所を検討しました。1つは、脱血回路側のエア抜きラインと呼ばれる側枝であり、もう1つはプライミングラインと呼ばれる側枝となります。
心肺補助装置開始前に脱血回路側のエア抜きラインは三方活栓とチューブ鉗子1本によって二重に閉鎖され、プライミングラインは三方活栓とチューブ鉗子2本によって三重に閉鎖されました。開始前には、脱血回路側のエア抜きライン部の閉鎖は心臓血管外科の医師が確認し、プライミングラインの閉鎖は、臨床工学技士2名で確認しました。装置の開始後、約12分間正常に作動していますので、開始時点でこの部分が開いていたとは考えられません。
空気混入の可能性があるすれば、チューブ鉗子が装置開始前から不十分に締め付けられており、それに加えて、三方活栓のコックが知らないうちに何らかの原因で開栓状態に至ったという特殊な場合になります。ただし、日常的には、三方活栓に少し触れるだけで開栓の状態になるといった事象は経験しません。
鉗子の締め付け程度によって空気が混入するかどうか検討しましたところ、通常のように完全に締め付けた場合にはあり得ないことであっても、鉗子を弱く締め付けた場合には、空気が混入する可能性があると判明しました。三方活栓について検討いたしましたところ、コックを閉じた状態を0度とすると、80度開くと空気が混入することが判明しました(90度の状態が本来の開栓の状態です)。
その他の可能性として、送血回路側のエア抜きラインに末梢動脈ライン*を接続するべきところを、脱血回路側のエア抜きラインに誤って接続すると、末梢動脈ラインのわずかな隙間からかなりの陰圧状態である脱血回路内に空気が吸い込まれることもあり得ると考えました。しかし、赤ライン(送血回路側を示すテープ)、青ライン(脱血回路側を示すテープ)による表示や、送血回路側と脱血回路側のエア抜きラインの位置関係よりその可能性は考えにくいと思われます。
以上のように空気混入の経路の可能性について考えられる限りのものを検討しましたが、結論は得られませんでした。
- (以下、報告書には記載されていませんが補足いたします)
*心肺補助装置回路から送血する向きは上方向、つまり脳に向かう方向となるために、下肢にも血流を確保するために、末梢動脈ラインを送血側の回路から分岐するエア抜きラインの側枝に接続します。動脈側のエア抜きラインは右大腿中央部分に位置し、静脈側のエア抜きラインは右膝より下に位置していますので、視覚的に誤認しにくい状況であると思われます。
<事例調査報告書を受けての再発防止策>
- @ 心肺補助装置の速やかな導入
緊急を要する際に使用する心肺補助装置回路をオールインワンパッケージの製品に変更しました。これにより心肺補助装置の準備にかかる時間を短縮することが可能となりました。またカニューレの挿入方法として緊急時には穿刺法を選択します。ただし、緊急性がなく、術後長期に亘って心肺補助装置が必要となることが予測される事例においては、長期使用に際して実績のある製品の使用を妨げるものではありません。
- A 心肺補助装置回路の側枝の確実な閉鎖
心肺補助装置回路の側枝を閉鎖する際には、脱血回路側エア抜きラインとプライミングラインの2カ所を、それぞれ2本のチューブ鉗子でラインの中央を締める(クランプする)ことにします。これにてわずかな空気が漏れる可能性もありません。また、使用すべきチューブ鉗子が適切に使用されていることが視覚的に容易に認識できるように黄色のチューブ鉗子を用いることにします。三方活栓が確実に閉鎖され、キャップがついていることを確認します。
ラインのクランプ・三方活栓閉鎖・三方活栓の先端のキャップの3点確認を複数の医師あるいは技士で声に出して行います。
- B 血管や心臓への空気混入予防
心肺補助装置運転中に輸液や輸血の交換をする際には、麻酔科医師は、従来通りいったんラインのクレンメを閉じてつなぎ替えるという手順を継続します。
- C 心肺補助装置運転中の確実な運転記録
体外循環記録を5分毎に記すことにいたします。
<京大病院の見解>
本事例においては、ご希望を持って肺移植を受けられた患者さんには、重大な結果に至ったことを大変申し訳なく残念に思っております。
心肺補助装置への空気混入という非常に稀な事態が発生し、過誤の可能性も否定できないために、事例調査委員会を開催してあらゆる角度から検討を重ねました。検討した限りにおいて、空気混入が生じたことは事実でありますが、これの明らかな原因は特定できませんでした。陰圧である心肺補助装置の脱血回路内に空気が混入するということが、今回判明しなかった特殊な条件下で発生し得る可能性が残りました。これについて、前述した再発防止策を実行しながら、今後慎重に肺移植術を継続していきます。
最後に、今回の医療事故の発生によって、肺移植を待たれている多くの患者さん、およびそのご家族、他の医療機関など多くの関係者の皆様にご不安を与えたことをお詫びいたします。